2009年06月14日

―食前・食後に梅酒をお飲みあそばせ―

―食前・食後に梅酒をお飲みあそばせ―

大正ロマン風のこんなテレビコマ-シャルがあったが、私はこれを忠実に実行してる。
夕食時には必ず梅酒を添えるのである。むろん、これは我家の畑でとれた梅をホワイトリカ-で漬け込んだ自家製のもの。
(これらがフランスワインよろしく数年分倉庫に眠っている。)
少々おかずが寂しくとも、キリリと冷えた梅酒が加わると食卓がリッチに見えるから、あら不思議。
ときどきはこれにブランデ-やらウイスキ-を加えてカクテルにする。
たちまち世にも美味なる高級酒の出現!一粒青い梅を底に沈めれば、気分はいよいよハイ。(気分が高揚すること)
ハイボ-ル?である。
「我人生に乾杯!」
「梅酒をお飲みあそばせ。」
コマ-シャルの口真似をして、夕食を堪能し、梅酒カクテルにほろ酔い気分となる。
まさに、お酒は百薬の長、ストレス解消の妙薬である。

 十五年前に、湖西市太田の主婦の方から、弊店のミニコミに投稿いただいた文章であるが、
今また何故か某メ-カ-のハイボ-ルが注目されています。
  コマ-シャルに惹かれて、ウィ-イズムで飲む酒もおいしいが
          自分の手作りの酒(梅酒)を飲む、ミ-イズムの飲み方も更においしいものだ。
  


Posted by 鷲津商店街 at 13:20コラム ふるさと

2009年05月20日

生れ出るものの不思議

取引の世界となると、悪知恵が発達していないと、どうもうまくいかないようである。
ただし同じ悪知恵でも賢明な人に見破られて修正させられるようなものなら、まだしも罪は軽い。これはだまし合いの勝負だからである。

性の悪いだましは、巧妙に正論に見せかけてする主張ないし指導である。
これに権力がくっついてくるとなお悪い。反発が許されないからである。
その主張者が、正論だと信じて、正論らしい正論を押し通そうとするのは辛抱できる。

我慢のならないのは、正論を押し出しておいて、裏をかくことである。これは実例に事欠かない。

 中国の故事に「ドブネズミは人間や豚の糞を食い、いつも猫におびやかされておどおどしているが、穀物の倉庫にいるネズミは、米や麦などうまいものを食い、のんびりと暮らしている。人間の賢と愚もつまりネズミと同じで、その居場所で決まるものである」。という話があるが、われわれの居場所とわれわれの賢愚の関係は、さてどんなものであろう。

悪知恵を働かせなければ生きて行けないような世界になぜなったのか。
どうにもならない事ではあるが、考えてみることは決して無意味ではあるまい。

 ハエは土中から出ない限り翅も伸びなければ、皮膚も固まらないという。

悪知恵もいいけれど、それを働かす前に、自分のからだを十分固める工夫をするほうがいい。  


Posted by 鷲津商店街 at 08:00コラム

2009年05月16日

生れ出るものの不思議

 五月蝿と書いてウルサイと読むが、午睡でもしている時の一匹のハエはまことにウルサイ。


ことにたいてい寝ている顔に止まりにくる。叩けば目にもとまらぬ速さで逃げる。昆虫の本を読むと、あの見事な飛行がどうして行なわれているのか、驚かされることばかりだが、ハエの場合、飛ぶようになるまでの過程が、またまことに興味深い。


 ハエは土の中で蛹(サナギ)になるのだそうである。当然土の中で蛹からかえってハエになるが、まだ翅(はね)が伸びておらず、小さくてやわらかい。土中から這い出して一時間ほどすると固くて黒いハエになるが、どうして、やわらかい体で土の中から出てくるのであろう。


「羽化したばかりのハエは、頭に袋を持っている。体をぎゅっと縮めて血液をこの袋に押し込むと袋は力強くふくれて土を押し分ける。

袋から血液を引いて肢(アシ)をふんばると、できたばかりの土の隙間へからだが入る。この繰り返しで土の中から外に出る。」のだそうである。(日高敏隆著:昆虫という世界・朝日選書)


 本能とはいえこれは驚くべき作業である。


ウルサイ、不潔、ゴマのハエ、蝿の持つイメ-ジは最低である。しかし生まれ出るまでに、そのような、神秘ともいうべき力が与えられていた。それを思うと午睡のじゃまだといって叩き殺すのは、いかにも哀れである。


 生まれるまでの神秘さはハエも人間その他の生物も同じかもしれない。しかし、生まれてから、ということになれば、悪知恵の発達した人間は、到底純真無垢な他のあらゆる生物に比較し得る資格はない。  


Posted by 鷲津商店街 at 07:56コラム

2009年05月14日

鷲津商店街協同組合 第41回 通常総会





「本日は大変お忙しい中、来賓の皆様方には第41回通常総会にご出席賜り厚く御礼申し上げます。 日頃は当組合に対しご支援、ご協力をいただいております事を、組合員を代表しまして重ねて御礼申し上げます。」

 組合員の皆さん、総会へ出席いただきありがとうございます。

昨年第40回の総会の挨拶で、
商店街は地域住民にどう喜んでもらえるかを考え、それに答えなければならない。これからは必ず商店街の時代が来る。その為に地域に奉仕すべきだ。と話させていただきました。

 また、平成22年度には、新居町と合併し新しい街ができるので、夢を持って声高らかに中心になろうとも発言しました。

 三遠中央市場の復活もでき、順調に商店街の時代がくると信じて活動をおこしていた矢先、リ-マン・ショックに始まる100年に1度と言われる未曾有の激変の嵐が吹き荒れています。

今、
 全国の組織小売業は、業績の低迷を理由に一斉に価格を下方修正し、売上の確保に必死になっています。

某乾電池メ-カ-も、中国で生産した、通常4個で398円の単3乾電池を、某コンビニエンスチェ-ンのOEMブランドで全く品質が同じものを驚きの価格198円で販売することを認めています。

昨年の今頃、企業は空前の好決算を出し、地域貢献を積極的におこなうべきだとも公表していました。ところが、今は業績を維持することにのみ必死になっています。大資本(大型店)の正体みたりと思うのは私だけでしょうか?

 今こそ地元を知り、地縁、血縁、義理、人情、侘び、寂びのある、向こう3軒両隣商店街の出番ではないでしょうか。

 お客様は、1人10色のライフスタイルでの買物をされますが、私ども商店街の方も必ず見つめています。今日の取引がなくても、明日、 困ったら必要としてくれます。常にお客様を見つめることを忘れないで毎日の営業に邁進して下さい。

 さて組合は、過去3期連続で赤字決算をしました。最大の原因は駅北駐車場が委託契約に移行したことがその理由です。

 過去、組合の駐車場所有地、約170坪を区画整理事業で事業地不足の湖西市に売却し、その売却条件にその土地は市の財産地として保有する又その土地の利用に関しては商店街と協議するとの約束から、商店街が駐車場運営し、その収益を駅前活性化の資金に使うというものでした。

 平成14年度に、駅北駐輪場が駅南に新設され移転をした跡地を、駐車場の代替で使用しないかと市からの打診があり採算割れの意見もある中、
12月から運営を始めました。当初は毎月赤字の状態が、役員のPR努力と商店街OBの皆さんの管理への協力が序々に実り、平成17年度には、市のいきいき補助金も返上するまでに利用者が増えました。

 しかし、突然議会から特定な商店街に市の財産を利用させ、収益をあげることは如何なものかとの意見が出、市当局は、県の押し勧める指定管理者制度導入の第1号に 駅北公共駐車場を指定したわけです。

 入札制のため、競争入札になり、それまでの活性化の収益源がたたれた為、赤字決算に陥ったわけであります。今期、役員さんの頑張りで何とか減収分を挽回し、採算のメドがたったわけです。

 賦課金に頼らず、自主財源での運営を大命題に運営を行なう当組合は、次年度は何とか黒字決算にし、組合員さんに利用分量配当をしたいと考えています。

利用分量配当とは、皆さんが利用されている、駐車場、共済等の利用状況に対して応分の返金をすることです。従い組合の収益が上がれば皆さんのご負担が軽減されるわけです。

 是非皆さんのご協力を衷心よりお願いするもので有ります。

経済不況、大資本のディスカウント攻勢、後継者不足の「三重苦」は、まだまだ続きます。毎日の商売にとって、当面大変な問題です。この難関を切り抜けなければなりませんが、愚痴を言ったり落ち込んでいても、何にもなりません。

業界組合や役所、商工会等指導当局にも、これという「決め手」はなさそうです。

 頼りになるのは「自分自身」。

そして、志を同じくし、行動を共にできる、商店街の仲間です。

 どうしたらよいのか?

 はじめに、店が置かれている「商店街環境の実態」を冷静に見直してみましょう。「こりゃ、たいへんだ」と慌てるような事実に取り囲まれていることに、改めて気付くでしょう。誤魔化してはいけません。率直に現実に対応しましょう。

 つぎに、心を落ちつけて、先駆者の話を聞きましょう、そして、自信を取り戻し、やる気を奮い立たせましょう。

「これまでの商売のままではジリ貧」

「では、どうしたらよいのか」という
意識変革から→業態選択を→決意断行へ。

その第一歩を踏み出すのが早いほど、あなたのお店には「未来の窓」が開かれ、
近い将来の立ち直りと繁栄への道が、着実な計画として出現します。

 地域社会に住み着いた商人としての自分の店の役割りを、共に手を携えてつとめて行くのが、「相衣共生」です。

 その「今日的課題」は、いわばリテ-ル・サポ-ト(組合員支援)です。

役員は、地域密着型商店街の新しい機能(つとめ・はたらき)と確信して、行動を展開していきます。

 組合は、この助っ人稼業のつとめを果たすことができるように、お役に立つノウハウ(方法)システム(しくみ)を用意し、それを駆使できる人材、経験豊富な内外のスタッフと専門コンサルタント・グル-プを揃えて、第一歩を踏み出すよう行動を興します。

 あなたのお店は、これから、どうなさいますか?

地元の人々に親しまれ、お役に立つ店の実現に、苦楽を共にするのが役員の「願い」です。

 そのために一緒に考えて、1日も早く、自信をもって行動を進めようではありませんか。

終わりにあたり、本日の総会にて慎重な審議を賜りますようお願いし挨拶に
かえさせていただきます。ありがとうございました。
  


Posted by 鷲津商店街 at 09:22理事長 挨拶

2009年04月28日

生き残る条件を整える。

ある大学の実験によると、1メ-トル四方の空地を草1本見当たらない状態にして(8月)1ケ月後に生えてきた雑草の数を調べたら、17,776本あった。この土地に含まれている植物の種子は数十万から百数十万粒にもなる、と推定されるが、その中から僅か二万本足らずしか芽が出なかったことになる。しかも芽生えた草も、成長し花を咲かせ実をつけたのは76本に過ぎなかった。種子に比較すれば1万粒に1粒の発芽であり、発芽した中の千本のうち5本しか成長しなかった事になる。
 自然界がこれだけの激しい生存競争を続けていることは、驚くほかないが、生き残るということのむずかしさをつくづく考えさせられよう。
このことを思えば、企業集団の中で生き残ることは、はるかにやさしい。しかし、これとても生き得る条件が整わねば、植物と同じである。
ただ、植物の場合は生きる条件が、すべて与えられたものであるのに対し、企業の場合は、その条件を自分から創り出すことが出来る点が、植物とは異なる。それでも、自分でその条件を創り出そうとしないで、他動的に与えられるもの、と考える人は少なくない。
 小売業界には特にこれが多い。もっとも、これもどうやら限界に来たようであるが。
今時分美しい花を咲かせる草に鷺草がある。これは一人立ちできないので、周りの草に助けられて細長い花軸を立たせている。
共存共栄とは、同じ企業集団内に限って当てはめられがちであるが、異業種間で図るべき行動規則をも含めねばならないようにも考えられる。
 時あたかも国の施策で、農・工・商連携による新事業創生の支援策が出てきている。簡単には興せない事業アイテムであるが
同じ地域に生活し、仕事、地域活動をしている同士、今こそ従来からもちあわせるヒュ-マンネットワ-クを起動する時期かも。   


Posted by 鷲津商店街 at 20:00コラム

2009年04月19日

人間には回復の能力がある。

脳の重さは大人で大体1300グラムだが、その脳へ送りこまれる血液は、体中の血液の20%近いという。1時間あたり45リットルもの血液が、休みなく脳へ送りつづけられている。大型乗用車がフルスピ-ドで走り続ける時に消費するガソリンは、1時間に10リットル、小型乗用車なら5リツトルぐらいであるのに比べると、脳の消費している血液の量の激しさが、実感としてうかがえよう。(森政弘著・心眼から)


 脳細胞が普通百億から百五十億個あって、20歳以降は毎日十万個ずつ壊れている、という話も驚きだが、一時間45リットルもの血液が脳に送り込まれているというのも驚きである。

 脳に送りこまれる血液の量は、おそらく誰も同じ程度であろうが、その血液によって養われている脳細胞の働きが、なぜ大きく変わってくるのであろう。

 老人になると意固地になるのは、血管が堅くなって血液が十分に流れなくなり、細胞を衰えさせているからであろうか、などと考えたりもするが、すでに数え年六十の私としては、あまりいい気持ちはしない。

 しかし、それよりも、同じ程度の脳細胞が、あるいは利欲を求めるためにのみ働き、あるいは名誉欲を追うことにのみ働き、また真剣にみずからのあるべき姿を探るなど、人により異なった働きを持つ、というのはいかにも不思議である。

 A新聞の記事で、MBCで、ケガでリタイヤした選手がその心境を語った中で
「ありがたいことに、人間には回復の能力が与えられている。早く直して出直したい。」と紹介していた。

「人間には回復の能力があたえられている」という言葉は、いかにもすがすがしい。

一日に壊れていく十万個の脳細胞や、年と共に衰える肉体的機能に、回復の能力がないのは残念だが、その他のかなりの部分で、また仕事などの面では、この言葉は十分当てはまる。自分のしている事や考えていることが、最善であると思い込んでいる人には無用の訓えであろうけれど。

 侵さず侵されず-などと日本の平和憲法のようなことを主張する人もいるが、それは肉体の衰え、頭脳の衰えを告白するに等しい。

侵せど侵されず、でなくてならない。そこでこそ回復の能力への感謝が生まれる。ただしそこに暴力があってはならないが。
  


Posted by 鷲津商店街 at 18:05コラム

2009年04月10日

肩の力を抜いて仕事をしてみたら?

肩の力を抜いて仕事をしてみたら?

 ボクは、生来ナマケモノであるせいか、仕事が忙しければ忙しいほど、遊びも忙しくなる。
仕事がない時は、あまり遊ばない。軽くジャズを聴いていたりするのが好きだ。


つまり、仕事が忙しく、動き回っている時は、どうしてもストレスを発散させる必要が生じるらしい。だから、酒も遊びも仕事と同じくらい手を抜かない。そうすることによって生活のバランスをとっている。


 ところが、残念なことに若者は、そのテクニックがあまり上手でないように思える。


ボクのいきつけのスナックに、ときどき場違いな感じのする若者が来ている。彼は、とても有能な編集者らしく、仕事の話をする時は目を輝かせて議論するに余念がない。ただ、場所柄、仕事の話はご法度となる場合が多く、彼と同席している人たちも話を自然に柔らかくしていく。


もちろん、「シモの話」が中心になることもある。すると、彼は頭がいい男性なのか
「ああ、仕事は、終わりということか」と了解する。


 その後がいつもみじめ、彼は話題に入ってこようとしないか、入ったとしてもソツなくこなしているというのが見え、見え。
決して俗にいう「イイコ」ぶっているのではない。 ”話で遊べないのだ”


 遊びの時間帯になるとぷつりと酒に手を出さなくなるのも、彼の特徴。
仕事の時間として酒を飲むのは、彼なりに仕事のうち(無理して肩肘張って)だったのだ。
  こうなると、シラケますネ。


仕事のできる若者は、遊びもできてほしいというのは、ボクの勝手かな。!?  


Posted by 鷲津商店街 at 19:38コラム ふるさと

2009年04月05日

ふるさと 4月

ある人と
 「あれもしなければならぬ、これもしなければならないという考え方から、あれもしなくてもいいという考え方への転換」の話をしていたら、
だんだん舞台が広がってきて
 「あの業者もいらぬ、この業者もいらぬとなったら、こちらも廃業しなければならなくなりそうだ。私自身も死ななきゃならない」と大笑いになった。
 確かに、どんな障害もなしに、不要なものを取り除いて行けたら、そういうことになりそうだが、幸か不幸か障害が多すぎて、その入り口に到達するだけでも大変であり、まず、廃業とか自殺の心配はあるまい。それにこの考え方に賛成する人が、どれだけいるかという事すらはなはだ疑わしい。もしろあれもこれもしなければ、と考える人の方が、圧倒的におおそうである。そして止どまる所なく仕事を増やす。一つ仕事を増やすと、付随的に幾つかの仕事が増えるものである。  


Posted by 鷲津商店街 at 23:58コラム ふるさと

2009年04月01日

永六輔著「商人」から

「日本経済が世界に遅れているとは、よく言われることです。

これはフランス人に聞いた話です。

企業の工夫というのでしょうか、企業の謀略というのでしょうか・・・・・

 ここのところ、日本がワインのソムリエで世界一という評判をとりました。ワインを飲んで育ったフランス人をおしのけて日本のソムリエが優勝するというのは、大変なことです。
 わたしは、まァ、立派だなあと思うのですが、これには別の見方がある。
日本にワインを売り込むために、とくに女性に売り込むためにはどうしたらいいか、という作戦があって、その作戦の一環だというんですね。

つまり、ソムリエ世界一を日本にわたす、そうすると、それが日本のマスコミで紹介される、紹介されればワインのPRになる、それが女性に対してのワインの売り込みにつながっていく、そんな話だというんです。
 これを聞いたときに、われわれはほんとに表面しか見ていないんだなァ、という気がしましたし、嘘にちがいないとも思いました。そしていま、女性を中心に、本当にワインブ-ムの再来です。

 よくできた話だなァ、と思っているほうが心おだやかではあります。

つまり、アメリカにかぎらず、ヨーロッパの企業もそうですが、彼らが日本を市場として考えた場合に、実にたくみに、そして圧力を持ったかたちでやってくる。
 これをわが門前町、あるいはわが商店街がどう迎え撃つのかということになってきますと、とても先の読める話ではなくて、考えるだけで、はっきりいいますが、憂鬱になってくる、絶望的になってくる。」

 
話題転換
 最近、日本の洋風菓子職人(パティシエ)が、世界レベルになったとの報道がありました。グロ-バルな我等地球人と唱える方々は日本人の技術はたいしたもんだと絶賛されたが?

 メタボ検診が保険対象になったからとはいいながら、あんなに濃厚な甘さは日本人には合わないんではないか!なんていうとお叱りを受けるかもしれませんが、ワインの二の舞になりませんように。


 日本の和菓子の伝統はいずこに、今再び蘇れ、才気煥発和菓子職人の方々に期待する。

4月4日 花よりだんご市で、日本の菓子に目覚めよう!   


Posted by 鷲津商店街 at 17:28コラム

2009年01月28日

回想

昔、大阪に北浜銀行という銀行があり、頭取は岩下清周という人だったが、
 その岩下頭取は

「百歩先の見えるものは狂人扱いされ、五十歩先の見えるものは多くは犠牲者となる。一歩先の見えるものが成功者で、 現在を見得ぬものは落伍者である。」と言ったそうである。

 この言葉を思い出したのは、古いが昭和54年「文芸社」出版の 「実力専務去る」を読んでいて、

 「経営者になるために、いつも、こういう訓練をしろ。
 今 5億の金があり、50人の人間が与えられたら、どういう会社を作り、何を作り、どのように売るか。
 どういう戦略をたて、業界に対してどうゆう戦術で立ちむかうか。これから毎日毎日それを考えることだ。自分の見るもの、聞くもの、 接するもの、すべてを仕事と結びつけて考えることだ。女を見ても、その服装や化粧のセンスから、商品のデザインを考えたり、 この女ならどういう日記帳を買うか、このタイプで、このくらいの経済力の女は、何割くらいいるか。生涯に何冊アルバムを買うか。 買うとすれば、いつ、どこで、といったように、一刻たりとも商売のことを忘れないようにすることだ。」という箇所を読んだときだった。

 その小説ではこの言葉をフヤセアルバムで躍進したコバヤシの里見専務に言わせているが、

  それが、岩下清周の言った、百歩先に該当するのか、五十歩先に当たるのか、それとも一歩先に相当するのか。
 あるいは、五十歩先にするのも一歩先にするのも、その人次第ということになるのであろうか。
 それに、実例を探すとしたら、どんな人が見つかるだろうか。しかし、一歩先どころか、己の足許さえ見えないものが殆んどで  はあるまいか、などど考えていると、なかなかもってうっとうしい日の退屈しのぎになる。

  現在を見、一歩先を見、さらに五十歩、百歩先を見て、これに対応できる人は極めて少ない。
 絵の先生は一様に「まず全体の位置をとり、それから細部描写に入らねばならない。」と教える。部分から描き出せば大抵失敗する。
 だが、仕事の上では、えてしてその失敗をおかしているようである。
  


Posted by 鷲津商店街 at 22:19コラム

2009年01月16日

ふるさと 平成二十一年一月

「夢の運河」

 明治三年の五月、入出、太田、神座の三ケ村の庄屋と組頭が連名で、浜名湖と渥美湾の間に運河を造り、船の運航に便じてはどうかと静岡藩の浜松郡政所に上申した。
 その上申書によると
「最近、人馬の賃銭が割り増し(値上げ),旅費が非常にかさむことになった。船を利用できれば便利ではあるが、それには危険な外海がある。
 もし遠三国境およそ二里半(約十キロメ-ル)に堀川をつければ、浜松から浜名湖~渥美湾と、内海を四日市まで十三宿の間を船便に頼れば、わずか一昼夜の工程となり、これによって受ける便益は非常に大きなものである。
 掘割の工事には、人足がおよそ三十万人。その賃金は約七万五千両余となるも、浚渫堀削の土砂で、浜名湖と渥美湾の沿岸を埋めれば新しい田地もでき、一挙両得と考えられるので、ぜひ運河を実現して欲しい。」というのが、大略であった。
 これは、おそらく太田川上流の小俣川を、現在の新所原付近で梅田川に結合して、運河とする計画であっつたかと考えられるが、小俣と新所原台地との高低さは十数メ-トルもあり、しかも、五.六キロメ-トルに及ぶ高師原台地を流れる梅田川を運河とするためには、現在でも大事業と考えられるにもかかわらず、当時の鍬(くわ)とモッコによる工法を思うとき、全く気の遠くなるような計画であった。
しかし、当事者は真剣そのもので、この年八月、郡政役所の下検分の時、三ケ村で人足二千人と、また入出村組頭,三十七(さしち)は単独で人夫百人の献納を願い出るなど、大いに張り切っていた様(さま)が伺われるが、その後の様子はようとして知るすべもなくいわゆる「夢の運河計画」に終わった。
 湖西地方では、日の岡港の繁栄に刺激されてか、明治十年前後に五田川河口から岡崎の法花寺下へと、今一つ五田川口より市場横杭(現在の市営運動公園の南方)への、運河の掘削が計画され許可されたが、いずれも着工を見るに至らなかったようである。
                           昭和五十年十二月「広報こさい」より  


Posted by 鷲津商店街 at 21:33コラム ふるさと

2009年01月01日

新年のご挨拶

 明けまして おめでとうございます。
  日頃は、鷲津商店街をご愛顧いただき誠にありがとうございます。

 いま、世の中は「迷走の時代」に突入したといわれています。急激な変革からくる需要の低迷など、まさに冬を、時に吹雪の夜を連想させる暗い話題に事かきません。ことに、商業者にとって、、暗くて寒い、長い冬です。

 私事で失礼ですが、若い頃、逆境にあった私に、商いの師匠、小嶋和四郎さんが、「冬来たりなば、春遠からじ」 と色紙に書いて励まして下さったことを想い出します。
 では、その春を、本当に明るく楽しい春として迎えるには、どんな努力をしたらよいのでしょうか。

 私たちを取り巻く社会が、自由経済社会であることは、喜ばしいことであり、公正な競争が進歩を生み出すことも当然です。
商人として、やり甲斐のある社会体制です。

 しかし、ゼロサム時代といわれる需要低迷の昨今、私たちは「フェア・トレ-ド」だけを考えればよいのでしょうか。
限られた丼鉢の飯を、誰れかが汚く食い荒らせば、他の人の量だけでなく質にまでも被害を受けます。悪質な廉売問題がそれです。

 「ジャパン・アズ・ナンバ-ワン」の著者、エズラ・F・ヴォ-ケルは 絶え間ない話し合いと相互理解への努力によって、合意に到達することの重要さを、経済環境変化への順応性をもつ道として示して います。 分かち合いの心です。

 いまの私たちをとりまく時代、いかに質をおとさずに生き残るかの課題は、「フェア・トレ-ド」プラス「フェア・シェア」だと思います。
それは、チエとマゴコロによる勝負をもって、かちとることができると信じます。

ところで、この「チエとマゴコロ」による勝負が、観念的なスロ-ガンに終わっては、意味がありません。
 それは、普段における不断の実行努力によってのみ、裏付けられ、効果を上げます。その実行努力が、ウデ、ワザとして身につけば、すなわちチカラとしてものをいいます。
 いうなれば、それは基本を大切に、着実に行なうことです。”当たり前のことを当たり前”にやることだと思います。これが冬に耐えて春を迎える、というよりも一日も早く春がやってくるようにするための課題です。

 チエとマゴコロで、着実な実行努力をすることを、今年の課題と致したいと存じます。
新しい年のはじめの覚悟を申し上げました。
いっそうのご愛顧、ご指導、ご鞭撻を下さいますよう、お願い申し上げます。

       2009年 元旦                       湖西市鷲津商店街協同組合
                                         理事長  土屋 政己
  


Posted by 鷲津商店街 at 00:01理事長 挨拶

2008年12月23日

ふるさと 12月

「雑感」

 アメリカIBMのト-マス・J・ワトソンJrは「働く者は野鴨たれ」と強調していたという。
鴨は渡り鳥で、わが国にも毎年渡ってくるが、この野鴨に餌付けをすると渡らなくなり、そのうち太り過ぎて飛べなくなってしまうという。
 多くの企業は長年の保護の下で飛べない鴨になった。しかしいまさら飛べというのは酷である。というようなことから相変わらず餌付けが
行なわれている。
 餌付けまあいいとしよう。だがそれが当然だと思ってはいないか・・・・・。その馴れが鼻持ちならない。
馴れの中には反省がない。自分の会社がなぜ苦しくなったのか? 不振の多くの企業は、原因はすべて行政にあり、有力対抗者の
進出にあると考えたがる。 そうではない。
 企業の盛衰はすべて最高責任者の責任である。不振の原因を外部要因に求め、そこへ責任転嫁しよとするのは自分の責任を
自覚しないからであり、それでは企業倒産は当然起こり得る。
 馴れるとこの自分の責任がわからなくなる。馴れるほうは自分が見えなくなっているが、馴れられるほうは、ほどほどにしてもらわないと
かえって厭になる。
餌付けをしても野性味が失われては面白くないのである。
 では、野性味とは何か? 純粋さを失わないことであろうか?

 我が家の犬は5匹いる。犬の中の一匹は撫でてやろうとすると、すっと逃げていく。餌をねだりに来ることもない。何とか手なずけようと
毎日ご機嫌を取っているがどうにも、ある距離以上関係は深まらない。それでいて、結局ほかの馴れきった犬どもより、いいものに
ありついている。

 人間関係も、企業の関係も、これと似たようなものかも知れない。馴れもほどほどに、ということであろう。
 餌付けも同じである。
  さて、餌付けとは何をさすのか?
 これはそれぞれ考えてもらうほかない。                                      


Posted by 鷲津商店街 at 21:40コラム ふるさと

2008年11月13日

ふるさと 11月

嘘と実の関係について

 ある小料理屋の女将が、ほかにお客がいないから、と断った上で、「このあいだ来てくれたお客さんがねェ」と話し出した。
私はコニャックしか飲まない、と言うんですよ。それでね、ほらあそこの棚の上にあるコニャックを下ろして、うちにはこれしかないのですが、と
出したんです。
私そのコニャックの名前なんか知りゃしません。そう、クバ-ジェですの。
そのお客さん「これこれ、これでなくちゃ飲めないよ」なんて言って飲んでましたけど、中身はコニャックじゃあないんです。サントリ-の
ブランデ-、あれいくらだったかなあ、確か1本4,500円。
なにが「これこれ」ですか。偉そうに「これでなくちゃあ飲めないよ」なんて言っても、なにも分かっちゃいない。帰りがけに、その人を
連れてきてくれた馴染みの客に「あれはサントリ-ですから高くないわよ。」と耳打ちしておきましたけど。

笑い話、と言ってもよいが、さて自分はどうか、となると、決して笑い話ではすまされない。知っているつもりのことが、実際はなにも
知っていない、のが普通である。あるいは、実のない嘘を実と思い込んでいたりする。

今の世の中は、実ばかり追い回しているように見える。
景品をつければどれだけ売れる、いくら値引きすればこれだけ出る。これだけの事をすれば、これだけの結果が出てくれないと勘定に
合わない。すべて、すぐ結果に現れてくれないと満足できないし、もうけにつながらないものには、関心を持とうとしない。
 しかし、それが、本当に「実」なのか、実だと思い込んでいるものが、本当は「嘘」ではないのか。

本田技研の本田宗一郎氏は、あるとき社内アイデアコンテストをやり、優秀なアイデア60件に、それぞれ50万円の補助金を出して、
勤務時間外に実物をつくらせるということをやった。
 その第一回目のとき、折りたたむとトランクになるようなオ-トバイが一等になった。これに対して本田宗一郎氏は
「だれがすぐ売れるようなものをつくれと言ったか。また、こんなものを一等にしたのは審査員の次元が低いからだ」と叱ったという話がある。
                                                         (超常識・ダイアモンド社)

 いますぐ役にたつもの、いますぐ儲けにつながるもの、を追いかけるのは、実を求めているように見える。またそうである。
しかし、その実だと思ったことが、いつの間にか嘘に変わってしまうことに、なかなか気がつかない。

 卸業者のKさんは、「私は問屋は機能の充実こそすべてであると考えている。」と言う。そして、この基になるのは人材の養成だとする。
人材養成は難しい問題だし、時間がかかる。それに、いますぐ儲けにつながらない。
しかも将来きっと大きな「実」を作り出すあはずである。
嘘・実いずれが真か、考えてみなければならなくなっている。  


Posted by 鷲津商店街 at 18:06コラム ふるさと

2008年10月13日

一休み



ノンベエ賛歌

(男は女だけで生きるに非ず)
 智に働けば角がたつ、情にホダされれば流される、じゃないけど、タテマエを振りまわせばギスギスする。
自分は振りまわさなくても、振りまわす人にぶつかったらたまらない。
逃げられれば逃げるにこしたことはないが、そうできなかったらどうするか?・・・・・
 ボクの経験でも歴史のチエでも、その場の対策は一つしかない。
シャレのめすことだ。
たとえば、自分のご面相をもかえりみず、
「結局、男が女に求めているものはSEXだけなのよ」などとケタタマしい声をあげる。リブ派のタテマエ女史には、こんなジョ-クで・・・。
 あるイギリス人、乗っていた客船が嵐で難破し、一人だけ小島に流れ着いた。生きてはいるけど、淋しくてたまらないので苦労して
イカダをつくり、海に乗り出した。
そして、また、小さな島に半死半生で流れ着いた。ところがその島には、やはり遭難して流れ着いた女性がたった一人で暮らしていた。
男はその女性に介抱され、食べるものを食べて元気をとり戻した。
そんな男を見て、女性はニンマリと笑いながらこう言った。
「さあ、あなたが長い間、夢にみていたものをあげるわよ。」 すると男は目を輝かせて言った。
   (註: ここで一呼吸いれる)
「なんですか! スコッチがあるんですか」

さらにトドメの一発をぶちかましてもいい。
「だいたい女性は、自然の産物に過ぎませんが、酒は文明の所産・・・・・。しかも女性に心を許しても酔わせてくれるとは限りませんが、
酒は間違いなく酔わせてくれますからねぇ」と。 
                                                                
                                              粋虎
  


Posted by 鷲津商店街 at 00:37コラム

2008年10月11日

ふるさと 10月



土壌の大切さ


 10数年前、こだわりのお茶を通信販売している会社のお手伝いで、熊本県中央町へ行った事があった。
柔道のオリンピック金メダリスト山下選手を輩出したり、日本一の階段(数)を持つのでも有名な町である。
この会社の契約農家が作っている高級茶の土は、二年サイクルで、土だけを専門に熟成させている農地があることにびっくりした。
生ゴミや不用になった畳を土とかきまぜ、有機分解させてできた腐葉土を、茶畑の土として定期的に投入しているという。
もちろん無農薬栽培。こんなに手がかかっていると100グラムで4千円だしても・・・・・と思いたくなる程だ。
 精力がつくことで知られる高麗人参は、その栄養成分吸収力から、収穫後、4、5年は、その畑では何も栽培できないという。
また、土で思い出すのは書家で有名な榊莫山さんが、土という字を書く時、横の二本を太く長く書き、縦の線をチョコンと小さく書いて
「この芽が出ていくために、土がたっぷり必要なんですよ」話していたのを思い出す。
 国際交流、経済対策などのお粗末や、政治倫理のなさが目立つ人が目立ってきている昨今、やはり、育ってきた我が国全体の
土壌が悪かったのかもしれない。よく見渡して、まだ間に合ういい芽を見つけて伸ばしていきたいものだ。       K・S  


Posted by 鷲津商店街 at 21:27コラム ふるさと

2008年09月01日

ふるさと 9月



馬追いのひげのそよろに来る秋は
      まなこを閉じて思ひみるべし


 秋の気配が深まってくると、この長塚 節の歌を思い出す。田舎で暮らしていると、夜、灯火を慕っていろんな虫が飛び込んでくる。

そんな中に馬追いがまじる。薄みどりの翅(はね),頭から背にかけて一と刷毛の茶色、それも同じ色の長いヒゲが、なにかを探るようにそよろに動く。しかし、そうした風情もいまは望みがたい。

 人は、失ってからでないと失ったものの価値を知ることができない。

今の豊かな社会環境は、多くのものを与えてはくれたが、代わりにどれほど多くのものを失ったか、いまさらどうしようもないにしても、それを考えてみることは決して無駄ではないと思う。

 生活の利便さのみを追い求めるが為に、この地の自然なり、住む人の純粋さが失われつつあるのは仕方のないことだでは完全に目的逸脱である。そして残るのは、いかに便利な地か、この目標のみになる。

 ちなみのベンツという会社は毎年四%以上の増産はしないそうである。それはベンツとして保証のできる車の生産に従事する技術者の養成が四%以上は不可能だからという。

言い換えれば、目標ではなしに目的をしっかりと持っているからである。


目標と目的は一見同じようにみえるが、本質的には全く別だから・・・・・・・・。    


Posted by 鷲津商店街 at 08:00コラム ふるさと

2008年08月17日

ふるさと 8月


酔っぱらい鳥の丸焼き

夏のドジョウはスタミナ食である。

ドジョウをおいしく食べるコツは、ドジョウに酒を飲ませることから始まる。生けドジョウを器に入れ、ひたひたになるくらいに清酒を注ぐ。最初は少し暴れるが、しばらくすると、ドジョウ達は酔っぱらって、すっかりおとなしくなる。

あとは煮るなり、焼くなり、定法に従えばよろしい。

 上海料理には、卵のたっぷり入った旬のワタリガニを生きたまま老酒漬けにしたものがある。これが有名な「酔っぱらったカニ」だ。

これは生けワタリガニに老酒を飲ませ、酔っぱらわせて一週間目ころが食べごろである。薄塩の新鮮なカニの姿のまま塩辛といったらいいだろうか。透き通った肉も赤い卵も舌がとろけるほどにおいしい。


ついでに言うならば台湾の「酔っぱらったウナギ」。台湾は今やウナギの大産地だが、本場で食べるウナギの台湾料理も、まずはウナギにたっぷりと老酒を飲ませ、酔っぱらわせることから始まる。

日本料理の手法に「スッポン煮」というのがある。これはスッポンの料理に、たっぷりと清酒が使われ、スッポンの生臭みを消す。

老酒をふんだんに使って豚のバラ肉をゆっくり煮込んだ「ちゅうめんろう」は、老酒の香りのぷんぷんする中国料理である。

清酒をたっぷり使った豚のバラ肉の水炊きもよろしい。沖縄の琉球料理は「豚肉に始まり 豚肉に終わる」とも「豚で食べられないのは息だけ」などというほど、豚とは切っても切れない縁がある。沖縄では子豚のときから、名酒「泡盛(あわもり)]の蒸留かすで育てるので、うまいのかもしれない。

酔っぱらい鳥の丸焼きを試みた。こちらは生きたまま酔っぱらわせるわけにはゆかない。料理用の注射器でヒナ鳥にところかまわず清酒(又は白ワイン)を注射する。あとは常法に従って、オ-ブンで焼き上げるだけである。

みずみずしくおいしい豪華な一品の出来上がりである。注射器は理科のコン虫標本作りに使うものでよい。アメリカにはアイデア商品として料理用の注射器があるとか。

しかるに酔っぱらい鳥の丸焼きは、男の料理としておこう  


Posted by 鷲津商店街 at 08:00コラム ふるさと

2008年07月22日

ふるさと 7月



猫の社会には、絶対的なボスというものは存在しないのだそうである。

それでいて猫社会の秩序はかなり整然と保たれているのが羨ましい。

この猫社会の秩序は、それぞれの猫が、誰の拘束も受けず、自由奔放に生活している、という前提があって成り立っているという。

実験室のような、管理された場所に飼っておくと、絶対的なボスが出てくるらしい。

 我が家の猫五匹は現在母親二匹、子猫三匹だが、そういわれてみると権力者らしきものはいない。

家の周りをうろついている野良猫どもの中にも一匹獰猛な奴がいて、誰がかかっていっても、歯がたたないように見えるし、
事実、多くの大人猫どもが迫害を受けているにもかかわらず、子猫どもに対しては尻尾を下げている。

 それにしても、自由奔放にしておくと、絶対的な権力者が生まれず、しかも秩序が保たれるというのはおもしろい。  

                                  粋虎  


Posted by 鷲津商店街 at 08:00コラム ふるさと

2008年06月14日

ふるさと 6月



美しい梅酒の蔭で

 梅酒の季節になった。毎日毎日氷砂糖が溶けて、瓶を動かすと、とろりとしたたまりが揺れて青梅が浮き上がる。この氷砂糖の溶けていくのを見るのが楽しい。

 果実酒の種類は多いが、やはり作る楽しみの最も大きいのは、梅酒である。苺は美しいが、色がしみ出してしまったあとの苺はみにくく、味も平板である。梅酒は作る楽しみだけでなく味、香り、梅の実と梅酒との調和など、すべての点で果実酒の王者であり、この格調の高さに比肩するものはない。

 私の家では梅酒とクコ酒を作る。

クコ酒は薬用にする。氷砂糖抜きで35度焼酎に漬け込んでおいて、必要なとき必要な分を別の瓶に移し甘味をつけて飲みやすくする。時には水を加えて薄めたりもする。これは神経痛にまことによく効く。

神経痛は、出てきそうだなというのが分かる。肩が重くなり、動かすとちょっと痛む、これは明らかにその前兆である。

こんな時に朝夕小さなグラスに一杯飲む。十日も続けると神経痛はあきらめて去る。

口の悪いのが、別にクコ酒じゃなくとも、アルコ-ルならよいのであろう、などと言うが、私はクコ酒が効くのだと信じている。                                    
                              
                                       粋虎
  


Posted by 鷲津商店街 at 08:00コラム ふるさと

あの人、この人、こんな話!