2009年01月28日

回想

昔、大阪に北浜銀行という銀行があり、頭取は岩下清周という人だったが、
 その岩下頭取は

「百歩先の見えるものは狂人扱いされ、五十歩先の見えるものは多くは犠牲者となる。一歩先の見えるものが成功者で、 現在を見得ぬものは落伍者である。」と言ったそうである。

 この言葉を思い出したのは、古いが昭和54年「文芸社」出版の 「実力専務去る」を読んでいて、

 「経営者になるために、いつも、こういう訓練をしろ。
 今 5億の金があり、50人の人間が与えられたら、どういう会社を作り、何を作り、どのように売るか。
 どういう戦略をたて、業界に対してどうゆう戦術で立ちむかうか。これから毎日毎日それを考えることだ。自分の見るもの、聞くもの、 接するもの、すべてを仕事と結びつけて考えることだ。女を見ても、その服装や化粧のセンスから、商品のデザインを考えたり、 この女ならどういう日記帳を買うか、このタイプで、このくらいの経済力の女は、何割くらいいるか。生涯に何冊アルバムを買うか。 買うとすれば、いつ、どこで、といったように、一刻たりとも商売のことを忘れないようにすることだ。」という箇所を読んだときだった。

 その小説ではこの言葉をフヤセアルバムで躍進したコバヤシの里見専務に言わせているが、

  それが、岩下清周の言った、百歩先に該当するのか、五十歩先に当たるのか、それとも一歩先に相当するのか。
 あるいは、五十歩先にするのも一歩先にするのも、その人次第ということになるのであろうか。
 それに、実例を探すとしたら、どんな人が見つかるだろうか。しかし、一歩先どころか、己の足許さえ見えないものが殆んどで  はあるまいか、などど考えていると、なかなかもってうっとうしい日の退屈しのぎになる。

  現在を見、一歩先を見、さらに五十歩、百歩先を見て、これに対応できる人は極めて少ない。
 絵の先生は一様に「まず全体の位置をとり、それから細部描写に入らねばならない。」と教える。部分から描き出せば大抵失敗する。
 だが、仕事の上では、えてしてその失敗をおかしているようである。
  


Posted by 鷲津商店街 at 22:19コラム

2009年01月16日

ふるさと 平成二十一年一月

「夢の運河」

 明治三年の五月、入出、太田、神座の三ケ村の庄屋と組頭が連名で、浜名湖と渥美湾の間に運河を造り、船の運航に便じてはどうかと静岡藩の浜松郡政所に上申した。
 その上申書によると
「最近、人馬の賃銭が割り増し(値上げ),旅費が非常にかさむことになった。船を利用できれば便利ではあるが、それには危険な外海がある。
 もし遠三国境およそ二里半(約十キロメ-ル)に堀川をつければ、浜松から浜名湖~渥美湾と、内海を四日市まで十三宿の間を船便に頼れば、わずか一昼夜の工程となり、これによって受ける便益は非常に大きなものである。
 掘割の工事には、人足がおよそ三十万人。その賃金は約七万五千両余となるも、浚渫堀削の土砂で、浜名湖と渥美湾の沿岸を埋めれば新しい田地もでき、一挙両得と考えられるので、ぜひ運河を実現して欲しい。」というのが、大略であった。
 これは、おそらく太田川上流の小俣川を、現在の新所原付近で梅田川に結合して、運河とする計画であっつたかと考えられるが、小俣と新所原台地との高低さは十数メ-トルもあり、しかも、五.六キロメ-トルに及ぶ高師原台地を流れる梅田川を運河とするためには、現在でも大事業と考えられるにもかかわらず、当時の鍬(くわ)とモッコによる工法を思うとき、全く気の遠くなるような計画であった。
しかし、当事者は真剣そのもので、この年八月、郡政役所の下検分の時、三ケ村で人足二千人と、また入出村組頭,三十七(さしち)は単独で人夫百人の献納を願い出るなど、大いに張り切っていた様(さま)が伺われるが、その後の様子はようとして知るすべもなくいわゆる「夢の運河計画」に終わった。
 湖西地方では、日の岡港の繁栄に刺激されてか、明治十年前後に五田川河口から岡崎の法花寺下へと、今一つ五田川口より市場横杭(現在の市営運動公園の南方)への、運河の掘削が計画され許可されたが、いずれも着工を見るに至らなかったようである。
                           昭和五十年十二月「広報こさい」より  


Posted by 鷲津商店街 at 21:33コラム ふるさと

2009年01月01日

新年のご挨拶

 明けまして おめでとうございます。
  日頃は、鷲津商店街をご愛顧いただき誠にありがとうございます。

 いま、世の中は「迷走の時代」に突入したといわれています。急激な変革からくる需要の低迷など、まさに冬を、時に吹雪の夜を連想させる暗い話題に事かきません。ことに、商業者にとって、、暗くて寒い、長い冬です。

 私事で失礼ですが、若い頃、逆境にあった私に、商いの師匠、小嶋和四郎さんが、「冬来たりなば、春遠からじ」 と色紙に書いて励まして下さったことを想い出します。
 では、その春を、本当に明るく楽しい春として迎えるには、どんな努力をしたらよいのでしょうか。

 私たちを取り巻く社会が、自由経済社会であることは、喜ばしいことであり、公正な競争が進歩を生み出すことも当然です。
商人として、やり甲斐のある社会体制です。

 しかし、ゼロサム時代といわれる需要低迷の昨今、私たちは「フェア・トレ-ド」だけを考えればよいのでしょうか。
限られた丼鉢の飯を、誰れかが汚く食い荒らせば、他の人の量だけでなく質にまでも被害を受けます。悪質な廉売問題がそれです。

 「ジャパン・アズ・ナンバ-ワン」の著者、エズラ・F・ヴォ-ケルは 絶え間ない話し合いと相互理解への努力によって、合意に到達することの重要さを、経済環境変化への順応性をもつ道として示して います。 分かち合いの心です。

 いまの私たちをとりまく時代、いかに質をおとさずに生き残るかの課題は、「フェア・トレ-ド」プラス「フェア・シェア」だと思います。
それは、チエとマゴコロによる勝負をもって、かちとることができると信じます。

ところで、この「チエとマゴコロ」による勝負が、観念的なスロ-ガンに終わっては、意味がありません。
 それは、普段における不断の実行努力によってのみ、裏付けられ、効果を上げます。その実行努力が、ウデ、ワザとして身につけば、すなわちチカラとしてものをいいます。
 いうなれば、それは基本を大切に、着実に行なうことです。”当たり前のことを当たり前”にやることだと思います。これが冬に耐えて春を迎える、というよりも一日も早く春がやってくるようにするための課題です。

 チエとマゴコロで、着実な実行努力をすることを、今年の課題と致したいと存じます。
新しい年のはじめの覚悟を申し上げました。
いっそうのご愛顧、ご指導、ご鞭撻を下さいますよう、お願い申し上げます。

       2009年 元旦                       湖西市鷲津商店街協同組合
                                         理事長  土屋 政己
  


Posted by 鷲津商店街 at 00:01理事長 挨拶