ふるさと 平成二十一年一月
「夢の運河」
明治三年の五月、入出、太田、神座の三ケ村の庄屋と組頭が連名で、浜名湖と渥美湾の間に運河を造り、船の運航に便じてはどうかと静岡藩の浜松郡政所に上申した。
その上申書によると
「最近、人馬の賃銭が割り増し(値上げ),旅費が非常にかさむことになった。船を利用できれば便利ではあるが、それには危険な外海がある。
もし遠三国境およそ二里半(約十キロメ-ル)に堀川をつければ、浜松から浜名湖~渥美湾と、内海を四日市まで十三宿の間を船便に頼れば、わずか一昼夜の工程となり、これによって受ける便益は非常に大きなものである。
掘割の工事には、人足がおよそ三十万人。その賃金は約七万五千両余となるも、浚渫堀削の土砂で、浜名湖と渥美湾の沿岸を埋めれば新しい田地もでき、一挙両得と考えられるので、ぜひ運河を実現して欲しい。」というのが、大略であった。
これは、おそらく太田川上流の小俣川を、現在の新所原付近で梅田川に結合して、運河とする計画であっつたかと考えられるが、小俣と新所原台地との高低さは十数メ-トルもあり、しかも、五.六キロメ-トルに及ぶ高師原台地を流れる梅田川を運河とするためには、現在でも大事業と考えられるにもかかわらず、当時の鍬(くわ)とモッコによる工法を思うとき、全く気の遠くなるような計画であった。
しかし、当事者は真剣そのもので、この年八月、郡政役所の下検分の時、三ケ村で人足二千人と、また入出村組頭,三十七(さしち)は単独で人夫百人の献納を願い出るなど、大いに張り切っていた様(さま)が伺われるが、その後の様子はようとして知るすべもなくいわゆる「夢の運河計画」に終わった。
湖西地方では、日の岡港の繁栄に刺激されてか、明治十年前後に五田川河口から岡崎の法花寺下へと、今一つ五田川口より市場横杭(現在の市営運動公園の南方)への、運河の掘削が計画され許可されたが、いずれも着工を見るに至らなかったようである。
昭和五十年十二月「広報こさい」より
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